「しょうもないプライド」シリーズはようやくこれで終わり(笑)。
前の記事でも書いた通り、とにかく「理想の英語できる人」を追い求めた結果、「虚構の英語できる人」が出来上がってしまった。
その状態でしばらく来てね、もう疲れた。
私はね、本当は実力なんて全然ないのさ。自分の中でそれを認めてもっともっと泥臭く学びたい。そんな「できない自分」を人の前でもちゃんと出せるようになりたい。
発音を捨てる
そんな自分を変えるべく意識しはじめたのがコレ。
私の中で「理想の英語できる人」像を成す大半を占めている「きれいな発音」を完全に捨てること。
あれだけこだわってていっぱい練習もしたんだけどね。
とりあえず発音ってやつを優先順位の最下位まで下げてもはや意識するのをやめた。
最近はガッチガチの日本人発音で英語を話すことにした。
もはややり過ぎなくらいに。
というのも、これのおかげで私が思い描く理想の英語できる人像を崩せるんだ。
そもそもこの理想像に固執し過ぎてこじらせたのが良くなかったんだよね。
下手な発音で喋ってると、「自分は今母国じゃない言語を喋ってるんだ。だから間違うのは当たり前だし、相手もそれをわかってくれるんだ」って安心する。
上手な発音で喋ってて「できる人」かと思いきや、いざ話させたら簡単な文章しか話せず、早いスピードの英語や深い話にはついていけない・・・
ってバレるよりもよっぽど気が楽だし。
真の実力をつけるために
発音のうまい下手よりも、語彙量だとか正しい文法だとかを知ってるほうがよっぽど重要。
発音がうまい人=英語できる人、発音が下手な人=英語できない人、では絶対に無い。
それでも、私の中ではとりあえず発音への意識を完全にやめることで余計なプレッシャーから解放された。
片言の下手な発音で話してると少なくとも「英語できる人」風には見えない。
これが私にはすごく重要。
こいつはそれほど高い実力は無い、と言わずもがな周りにわかってもらえる。
あれだけ練習してた発音。でも今はいったん置いておいて相手とコミュニケーションが取れる真の実力を身に着けることに専念する。
それがきちんと身についてきたら、また発音にも意識を向けよう。
でも完全になまってしまうことの無いように、家で一人練習するときとか仲の良い友人の前では発音も意識して喋るようにはするけど。
等身大の実力
本来の自分以上の良いイメージみたいなものを作ってしまうと本当苦労する。
ましてや恥なんかかけなくなる。
たとえそのことが周りから見抜かれていたとしても、自分自身がそのイメージに固執してしまうのさ。
もうね、今私は等身大の「できない人」として真っ新な状態から学んでたくさん恥をかいていくよ。英語を勉強し始めてから、ずーっとずーっとできなかったこと。
アラサーになってようやくカチコチに固まっていた何かが少しずつ柔軟になっていくのがわかる。
さて、英語頑張ろう・・・!
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